世紀の「大決闘」、と言われて名高い「巌流島」
平成15年から大河ドラマ「武蔵」で、改めて注目されるようになり、
定期渡船も就航された・・・というわけで、早速行ってみました。

先ずは、巌流島へ行く船に乗るため、渡船乗り場へ・・
島へは下関と門司港、両方から出ますが、
今回は門司港から乗ることに。

門司税関の裏に、こんな建物が新たに登場していました。
「海峡ドラマシップ」と言って、「関門海峡の時空の旅」を
楽しめる、と言うモノ。

関門の歴史、そして「今」を体感できる施設として、
平成15年4月29日開館しました。


門司港から船で渡ること10分。
見えてきました!

これが「巌流島」の全景!!


船着場に到着。
こんな立派な「モノ」が出来ていたとは知りませんでした・・^^ゞ

このすぐ向かい側が下関側で、「彦島」と言う島が見えます。
目の前に、三菱重工下関造船所がそびえ立ち、
大型フェリーや、自衛隊の軍艦がドックに並んでます。
(マウスを写真に当ててみましょう)


さて、第一歩を踏みますと・・・

これが巌流島の全体図。

正式住所が
下関市彦島 字 舟島(ふなしま)

元々、緑と黄土色に塗られた図の様に、
船の形をした島だったのです。
その後、埋め立てられて(茶色の部分)
今の形状になったわけです。


この「第一歩」を踏んだ位置が、丁度宮本武蔵、佐々木小次郎の決闘場だったとか。
この場所に「文学碑」が置かれていて、その物語を記しています。

でも、なぜこんな離れた島で決闘を?

と言う方も多いはずですが・・

一つは細川家の家督問題。
当時細川家は小倉の本家である「忠興」と、中津にいた三男の「忠利」との家督争いがあり、
忠利の剣術指南として仕えた小次郎に対抗して、細川忠興は武蔵を仕えさせました。
忠利側が、立ち合わせようと考えますが、徳川家康が武芸者の無用な立合いを禁じていることから、
人目のつかぬ小島で戦わせようとした、ということ。

裏では細川本家の「小次郎暗殺」計画も兼ねていたらしい・・

もう一説では、当時、徳川幕府が豊臣方の「残党狩り」を盛んにしていた背景があったようです。
本来なら、小倉城下で決闘してもおかしくないのですが、
細川藩は当時、武蔵の経歴を事前に調べていたのでは?と思われます。

元々武蔵は「西軍」側の兵に着いていまして・・

「下手に城下でやって武蔵が勝ったとしたら、経歴上、豊臣方を雇うのはまずい。
徳川幕府にすぐ知られてしまうし、領地を取りつぶされてしまうのでは・・!?」

という恐れを察してか、敢えて離れ小島の「舟島」を選んだようです。


島を歩いていきますと、公園として整備が進められています。
天気の良い日は、釣り竿もって磯釣りするも良し、
お弁当もってきて、食べるのも良いかな?

関門橋もこんなに奇麗に見えるので、良い眺めです。


ずっと向こうへ歩いていくと・・・



「遅いぞ!!貴様。
今まで何をしておったか!!!!!



ひぃぃっ!

小次郎様が痺れを切らしてるぅぅぅぅぅっ!!!(( ( (ヽ(;^^)/


本州側の背景で

九州側の背景で

佐々木小次郎様が、お待ちかねでした(笑)
今回の大河ドラマで演じている「松岡昌宏」がモデルなんだそうで。
(勿論彼の手によって、除幕式も行われたのですが・・)

なかなか凛々しいお姿でありました。
ちなみに「武蔵像」は、四月上陸致しました。
銅像設置時期も、過去の歴史と同じでしたか・・・!?
除幕式にも市川新之助様が来たのですが、
彼もまた、「遅刻」して・・・大ウケしたそうです。(^^)

そりゃ、忙しい「武蔵」ですモノ。無理ないか・・

参考 武蔵像を造られた方のサイトです


小次郎様の後ろには、巌流島の歴史を書いたオブジェがあります。

でも、最近この島の歴史上、全国的にもう一つ知名度が高いのは、
「アントニオ猪木とマサ斉藤の決闘」だったりして(^^)


さて巌流島をあとにします。
この丸い船は、関門海峡を遊覧している定期観光船。
これを利用しても上陸が出来ます。


もう一つ、巌流島とならぶ「縁の地」と言いますのが・・・、

門司の手向山(たむけやま)公園にあります、「小倉碑文」

武蔵の養子である宮本伊織が、小倉・小笠原藩に赴かれたとき、
ここ手向山を領地として授かったそうで、
その際、熊本・細川藩にいる師匠の武蔵を偲んで設けたのが、この碑なんだそうです。

全て漢文なので分かり難いですが、大まかな内容は、
武蔵の生い立ちから、吉岡一門との決闘、巌流島での決闘、
そして武蔵の強さの極意を記しているのです。


ちなみに、この近くに宮本一門のお墓があるのですが、許可無くして立ち入りが出来ません。
ここでは毎年、小次郎の命日に近い日曜日に「小次郎祭り」として、
佐々木小次郎を偲ぶ催しがあります。

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